川越藩最後の大名家。
本姓は松井氏で本国は三河国の徳川譜代大名。
徳川家康の家臣となった松井忠次が功を得て松平姓を拝領。松井松平家と称する。
また周防守(すおうのかみ)の官名を拝領して世襲した為、松平周防守家とも称する。
なお、通り字「康」も家康から拝領。
初代松平周防守となる「松井忠次」は東条松平家の設立・徳川家康の三河平定・諏訪原城攻めなどでの功を得て、「松平周防守康親(やすちか)」の名・蔦紋・卍槍を拝領。
二代目康重は徳川家康江戸入封時に武蔵騎西(きさい)に二万石で入り、大名の仲間入りを果たした。
その後、常陸笠間・丹波篠山・和泉岸和田・播磨山﨑などに転封。
石見浜田では最も長く180年近く統治していた。(1649年~1759年・1769年~1836年)
1836年十代目康爵(やすたか)の時に陸奥棚倉へ転封となる。
1866年十三代目康英(やすひで)の時に武蔵川越へ転封となるが、すぐ幕末となる。
旧姓復古により姓を松井氏に戻した後、十四代目松井康載(やすとし)に引き継ぎ、廃藩置県で藩政を終える。
幕末の家臣には「蛍の光」の日本語歌詞を作った「稲垣 千穎(ちかい)」がいた。
また、俳優の市村正親氏は家臣の子孫にあたる。